僕の住む松本の街から、西方やや北寄りに常念岳(標高2857m)は聳えている。
松本平から突然、屏風を立てたように立ち並ぶ北アルプス連峰の中で、最も高く大きく、他を圧しているのがこの常念だ。
ピラミッドのように長く張った稜線の美しさは、日本山岳中、随一ではないだろうか。常念より標高の高い槍ヶ岳や穂高岳は、前山と呼ばれる常念の山並みの背後にあるため、松本や安曇野からは目立たず、やはり里からの主役は常念だ。
僕が常念を撮り始めたのは、もう21年前のことで、母が脳腫瘍で入院し、その付添看護をするため東京から松本へ帰ってきていた頃だった。看護の合間に、自宅近くの城山に続く登山道の中腹から常念を撮った。
ここは、かつてヨーロッパアルプス登山を夢見て、体力作りに駆け登っていた登山道だった。途中、一ヵ所だけ木立が切れて見晴らせる場所がある。それ以来、ここが僕の常念撮影の定点となった。
定点で撮るということは、常念へ向かう方向・角度・距離が限定される。しかし、この足場を限定したことによって得られる幸運なことがあった。それは、常念と太陽との関係だ。定点から望む常念岳は、真西より約20度北に位置する。そのため、春分に真西に沈んだ太陽は、5月下旬頃より常念の左肩に沈むようになり、6月初めに頂上に落ちる。
この頃は、常念と夕日を狙うのにおおわらわだ。夏至を境に一旦、常念を通り越した太陽が南へと移動し、再び常念の頂上に夕日が沈む頃は梅雨に入る。そこで撮影は小休止だ。しかし7月下旬、梅雨が明けると時として鳥肌が立つような夕焼けが常念上空に出現し、また撮影に追われるのだ。
以前一度、梅雨明けを体感したことがある。真っ黒な常念の三角のシルエットの上に、朱色に染まった夕焼け雲が見事なコントラストを見せた。異常な透明感に包まれた大空に、カーンという音を感じ、そのとき、梅雨明けを確信したのだった。同じ場所で20年以上も撮っていれば、ほとんど撮り尽くしたでしょう、と他人から言われる。
いや、それがそうではない。足を運べば、今まで撮ったことのないシーンにまだまだ出会う。近頃は「今度はどんな場面に出会えるのか」と、ますます期待して出かけるようになった。季節や時刻、天候により光の状態や雲の動きは千変万化する。そこに太陽、月、星といった天体が絡むことによって尽きることのない一期一会の瞬間が生み出され続けているのだと思う。常念の一刻、一刻にシャッターを切る時、僕は、地球の計り知れない面白さに拍手喝采している。
常念の頂に太陽が沈んでいく瞬間などは、地球のダイナミックな動きを肌で感じ、全身がカーツと熱くなる。常念に象徴される地球と、太陽や月、星々に象徴される宇宙との永遠たる営みの一瞬間に自分が身を置いていることが、とても幸せに思えてくる。そして、この定点に立つ時、漠とした広大な宇宙の中での自分の位置と存在が、微かなりとも見えてくるような気がするのだ。
松本に生まれ、常念と出会い、絶好の撮影ポイントが身近にある。これは、「お前が撮れ」ということだ。悠久たる時の中で動かず立ち続ける常念と向かい合い続けることは、実は、自分自身と向き合い、自分を見極めていくことなのではないだろうか。姿、形を越えた常念を撮りたい。それが撮れるまで、定点へ登り続けるつもりだ。